残機と私

シューティングゲームでは、不慮の事故を乗り切るにあたっての呪術的な思い切りのため、あるいは乗り切れないと判っていた時の奥の手として、ボムと残機を貯めてそこを乗り切る判断が必要になる。

現実を生きる上で、僕たちは大抵の場合、墜落後にその残機を探すことになる。

ところで、推薦文で一目惚れした小説や、かつて隆盛を極めたジャンルの始祖の素晴らしい名作アルバム、その道の人間の必須履修科目であり共通言語の一端となったアニメ、皆が口を揃えて今までにないほど面白かったと答えるゲーム。あるいは友人が作った、やれば必ず良かったと言えることが予め約束される作品。

そうした山ほどの財宝を僕は「残機」としてみなし、いずれにも手をつけず、物によっては手にするだけでしまい込み決して開けないようにしてきた。いずれ墜落した時のため、余ったら、余った人生のため。

 

昨年の年始、友人たちにこのことについて「お前はいつ死ぬか分からないのだから、生きている今のうちに触れるべきものがあるのではないか。残機と思っているそれは実はボムで、抱え落ちが発生するのではないか」と指摘された。

この意見には概ね同意できたので去年一年は「残機」を積極的に消化することを目標にし(今までの誓い立てのために勢いを出せず、結果として二割程度しか消化できなかったので未達)、わずかな「残機」を喪いつつもいくつかの名作を楽しむことができた。

例を挙げればビートルズ。未完作品では2rot13氏による「ソーシャルシリアスゲーム」。それに「暗殺教室」、友人の詩集など。アニメには拘束時間の問題があり、観るべき作品に触れることはなかった。

 

前置きは長くなったけれど、うち大半の残機を残したまま今年というステージに入り、少し問題が発生した。

比較的新しい分野である、スマートフォン向けゲームに新たな名作が見つからなくなったというか、見つけるのが苦痛になった。

残機を確認するとこの分野の残機は1(後述する理由で恐ろしくて触れることができない。「ネクロダンサー」)。触れてみなければ確かめられないし話題性の問題がある、鼻の効かない不得意分野だったこともある。けれどもけして嫌いな分野ではなく、実際にいくつかの名作にも触れることができていた。

どうしても時間の問題でスマートフォン向けゲームを探したかったので、これを根気よく探すことにした僕は「必ず探せば良作がある」と信じていた。探してしばらく経ってそれは段々と不安を帯びていき、やがてほぼ絶望に近い実感に変わっていった。

 

残機を保有するメリットとは、はじめに書いたように不慮の事故への保険というだけではない。立ち向かうべき難所を乗り切るための「呪術的な思い切り」のためでもある。それは多ければ多い方が気を強く保てるし、思いもよらないブレイクスルーに出会えるチャンスを生む。

のみならず、残機を探す行為においてでさえそれがあるから挑戦でき、それがあるから希望を絶やすことなく探せていたのだと気づいたのはこの時だ。諦めて足を止めてしまった理由の多くは、この先に何も無いのではないかという不安からだった。

事実他の分野での良作探しにはほぼストレスはない。ノイズの多さも影響するにせよ、もっとノイズの多いはずの音楽分野での探索の苦労はスマートフォン向けゲームのそれとは桁違いに低い。

 

抱え落ちをすることなく生き延びるためには下策であることは確かだけど、僕はどうやら残機を溜め込むことをやめられはしない。

これから先もよほどのことがなければ、ガンダムエヴァンゲリオンを観ることはないだろうしundertaleに触れることもない。

 

生きづらいと思う。