毒を飲むにはちょうど良い時間

数か月前に重い風邪を引いた。病気の間はそれでなくとも気が弱るというのに、仕事に追われていた僕は数日の休養に作業時間を奪われたことにより、穏やかに昼から睡眠を取るという気分ではなかった。目を閉じればあのくだらないソースコードが鮮やかに目に浮かぶ。
こんな時に限って、いつも「あの作品が読みたい」とか「時間さえあればやりたい」と思っていたものの事を思い出せやしないし、仮に思い出せたとしてもそれに喜んでありつけるような精神状態ではない。
そういう状態の僕が無限の苦痛の時間を和らげる方法として行ったのは、全く興味もないどころかむしろ見た事もないのに悪感情を抱いていた、二次元画像をまるで生きているように表情をつけさせる技術を使って動画を作る、いわゆるVTuberの動画を観続けたことだった。

なぜ悪感情を持っていたかといえば、僕は元来アイドルやかわいい二次元、声優や配信者やYoutubeの芸人などにも全く興味がなく、そもそも想定していた内容から言えば僕が気に入るはずもないどころか秒でその動画を閉じるだろうからだ。
また、そもそも目も耳も時間も奪われる動画メディアを楽しむことは、基本的に普通に働いている限り触れられるものではない。その上、プライベートと仕事上の人付き合いをかなり住み分けしている僕にとって、帰宅した後の時間は替えがたいリソースで、興味が無いものとそれとを天秤にかけるまでもない。
この時の僕は、そういう嫌悪感のものとは無縁で、なんなら前に挙げた全ての要素が大好きだという考古学者や職人とは全く異なる仮想の萌え豚としてこの動画群を観漁った。部隊が厳しい戦場を切り抜けるために少女を妄想するように、笑顔で、一切の疑問を抱かずに。

何でこんなことをしたのかにも理由があって、普段興味を持たないものに物凄く没頭している人格であれば、むしろこの状況はご褒美のようなもので(動画の良いところは寝ていても観れるところで、映画よりも没頭せず疲れない)贅沢感と徹底的な現実逃避によって仕事の頭から離れられ、また用さえ済めば平気で捨てられるのではないかという考えから来たものだ。
平たく言えばこれは半分成功し、残りははっきりと失敗した。
割り切って関わっていた異性をいざとなった時に切れない、のようなシチュエーションが起こったことに完治後数日の間困惑し、そこで初めてその人格の部分部分が自分本来のものと繋がっているところがあることを認めざるを得なかった。
つまり、僕は元々そういうものを普通に好きと言える素養を持っていたし、想定と実際はかなり実態が異なるものだった。

あの文化についてちゃんと認めている箇所を一つに絞れと言われると、セミプロあるいは素人がその分野を各々で開拓し続けている点に集約されると思う。思ったよりもかなり探り探りのそれは、余裕を持った大御所の作品であっても平気で隙を感じるし、狙いと同時に悩みや迷いが伝わってくることからも分かる。これまで、あの手の人材が自分の力を示せてかつプライバシーを守れる舞台は一つも無かったはずだ。
生産者は常に消費者による過剰な要求に応えつづけなければならない中で過剰に儲けることを非難され、金にならないとされた分野ではすぐに供給は途切れた。そうした既存分野のクリエイターにとっては嫉妬さえ覚えるだろう。荒れ野で育った花は強いが、寄付を見咎めない土壌の方が作物は良く育つのは当然だろう。
見た事のないような何かが育っているのを間近で見ることが出来るのは単純に爽快で、今でも病床で世話になっていた人たちのその後を調べたりもするほどだ(動画を観る時間は殆どない)。

ところで僕は今回の例に出した具体例を薦めるためにこの話題を書いたわけではない。
評価出来ない状態にある何かが身の回りに溢れているので、盲目になるのは一切得が無いどころか害ですらある、ということを身近な友人と酒を呑んで話したことが切欠だった。
が、体よく「風邪を引いて現実逃避から進んで毒を啜ったら案外大丈夫だった」話をしてお前もやれと言うのは暴挙が過ぎるので、その時を思い返して纏めたのがこの記事だ。
このエントリの本題は、毒を飲むにはちょうど良い時間があることを教えるためだ。