嫌いな物がありすぎる話

嫌いな作品がある。列挙すればいくら書いても足りないぐらいの数になると思う。必要があればそれを表明もするので、仲の良かった人からも疎ましがられて関わりがなくなったりも良くする。

それでも嫌いな作品のことが本当に大嫌いだ。

そのうち話題性のあるものについてを書く。

 

この嫌いな作品についての表明の必要は、年々増している。わざわざ嫌われたいわけではないけど。

身近な友人達でさえ大概誰が見ても面白いものを薦めるが、多分僕はこれが苦手だ。例えば誰が見ても面白い映画を薦めて話が弾んだとしても、その時間で各々思い思いな映画を見てもらった方が身近な人の生の情報は増えるし、その人が初めて遭遇した作品の感想を見る機会を失うからだ。

そういうのを抜きにすれば話題性の高いものをフラットな状態で楽しめるから、凄まじいダメージを僕はぼやけた視界の外の他人の集まりから受けているとも思う。

 

あの人の感想を聞きたいというのは当然の欲求だし僕にもそういう欲はあるけど、ピンポイントにこの人に、僕に向かって感想を聞かせてほしい時にしか言わない。

全方位にお薦めできそうなものを紹介することもなくはないが、感想を求めているわけでなく、かつ全方位にお薦めできる以外の感想を書くことが難しかった時が殆どだった。

元々流行や大衆に受け入れられる作品を避けてきた傾向はあって、嫌いな作品の殆どがその要素を含んでいる。それは子どもの頃は「凡俗とは違う」とでも言いたげな悪い意識だったり、クラスのみんなと話すための短絡的な資格を得るのが嫌いだったからかもしれないけど、今はある程度定期的にそうしたものに触れて、触れるたびに再確認している。

つまらない。大多数の人間が同じものを見て大喜利をしている様が本当につまらないと思う。いつしか身の回りがそんなことばかりになって、SNSが息苦しく感じたり、そういう作品を流布する人を意識的に遠ざけたりさえした時期があった。

 

これは未だにとても後悔しているけど、その人たちはどの人も二人で話せば面白いことを沢山知っていたし、不思議な作品も沢山知っていた。

狂人らしく振る舞うなら、誰が見ても面白い無難なもののコントロール下にある人に僕のような人間の声は届かない。それどころかこれを読んだ人間は僕こそが他人をコントロールしたいと思うだろうけど、むしろ僕はこんな僕にコントロールされるような雑魚であってほしくはない。それどころか殆ど全てのコントロールを受け付けない超人のようであってほしい。

その人たちもかつては超人のようだった頃があった。

 

僕には好きなものが結構たくさんある。嫌いなものよりたくさんあるし、不当でなければ貶められても気にしない。

そういう好きなものは、別に他人に共感を求めるでもなく好きなものだ。一人で楽しめることが最低条件というわけではなく、輪を広げないと面白くないものは別にあまりない。

それに疑問は持たないけど、ただぼんやりと、そういうものにだけ関心を持って暮らす未来を想像すると、やっぱり薄く重い不安を感じる。