劇場とポンコツの身体

特に書くことがない日、という日は日記を書く時に定期的に訪れる。書くべきことがないわけではなく、書くべきではないのではないかと悩む日だ。

考古学者兼職人の日記を書くのはそれほど負担がないものの、例えばこんなに美味しいものを食べたいい日だっただとか、こんないい映画を見ただとか。そんなものを見せられたくない人というのは往々にして居ることを知っているから悩むのだった。

だから基本方針を定めておくと、ここではあまりにプライベートなことは避けつつも、自分が楽しかったことについても特に気にせず書くように心がける。生きているということは辛いことだが、辛いことをし続ける第三者というものほど理解しがたいものもあるまい、とこう思ったからだ。

 

今日は劇を見る日だった。三谷の新作で、以前とは違い全方位に客席がある池袋の東京芸術劇場の公演だった。

僕は劇というと、役者の細かな表情は見えないし、強いシーンで早口をまくし立てたりするあたりが苦手だった時期があるが、最近眼鏡を作ったことと三谷はそういうアプローチをどうでもいいシーンでしか使わないので気に入っている。

あの早口は鍛錬の成果を見せようとする、いわゆる「粋」なのだろうか。一度役者を目指す人に聞いてみたいところだ。

肝心の内容については伏せるが、喜劇作家らしい緊張と弛緩のバランスと、伏線の張り方から先があまり決め打ちで読みにくいいい話だった。それと優香があそこまで「やる」役者だと思ってなかった。かなり面白い部類の内容で大満足だった。

本題はここからである。

 

手に汗を握る、という評価がある。いや、なにも観劇中の手汗の量が多いという話をしたいわけではない。あれはなぜ手汗をかくのかを考えたことはあるだろうか。

実は僕の癖についての話題なのだけれども、皆さんにも当てはまるのではないかと思い、投げかけてみようと思い立った。

映画や劇を観るときに、休憩や終演時に身体が硬直することはないだろうか?

 

いわゆるラブストーリーや動物モノ、ギャグストーリーにバイオレンス、どれを観ようと変わらないことがあって、劇中に身体が硬直し、気づけば万力のような圧力で膝を掴んでいたり、床に面した足が震えるほど踏みしめられていたり。

ひとえにシーン毎の心象描写や展開への不安(作品的にも、メタ的にも)はどの作品にもある。程度の差こそあれ集中して何かを観察することを一時間以上もの間続け、その中で文脈を想像するという状態は少なくとも僕にとってはたいへん異常な状態だ。

今日は休憩時間がある劇のため、その状態に気づいて対策を立てた。あえてなにも考えず見るともなく見ず聞くともなく聞く瞬間を数秒続けたのだ。すると思った通りで、後半の強い展開中でも脱力することを合間に忘れず観ることができ、たいへん快適だった。

 

思うに、人間は心が大事だと良く言われるが如く、体の限界を心は軽々と越えて行く。それは歪みを生むこともままある。

この辺りを改善するためには、自分のそうしたポンコツな仕組みを冷静に判断して対処する他にはない。乗りこなせるよう調節するのか、乗りこなせないのだから諦めて度々休むのか、乗りこなせなくとも乗ってみるのか、場合によりけりやりかたがあるはずだ。

 

なにせ僕らの作った仕組みのうちで、身体よりも古くつくられた仕組みはない。冷静に観察して補修することは職人としては立ち向かわねばならないことだろう。

少なくとも、楽しく劇を観るためには。