呪われたコーデックスと除霊

一つ、職人としての知を共有しなければ今日の日記は綴ることができない。
コーデックスは大きく二つに分けられる。一つは、人間が見えるもの。もう一つは見えないもの。たとえば材料を量る指示を表示するものと、その裏で材料を量ったというエーテルを受け取りその指示へとつなぐもの。これを具象コーデックス、抽象コーデックスと呼ぶ。
抽象コーデックスは見た目を伴わず、多くの具象コーデックスの中で流用されうる。【フェオ】が作った抽象コーデックスがそうであるように、多くの具象コーデックスの根幹となっている場合が多い。これは、その抽象コーデックスが悪ければどの具象コーデックスにも影響を及ぼし、逆にその抽象コーデックスが良ければどの具象コーデックスも正しく動作を行うことを意味する。

【フェオ】の抽象コーデックスの悪辣さについては先日綴った通り。触れないし直せない抽象コーデックスはそれそのものが罪の結晶であり、通例であればさまざまな仕組みを使っている人々によって罰が下されるだろう。実際に、【フェオ】は過去にどこかの工場で散々な罵倒を受け、再起不能にまで追い込まれ精神を病んだ職人だと言う。我々のような職人見習いは、この出来事を我が身としてその報いへ畏れを抱かねばならない。
彼の抽象コーデックスには名前が付けられている。が、どの具象コーデックスへと組み込んでも罪を重ねることになる事から、もうお分かりだろう。名前を知るだけでもその呪いを受けるものの、そのものの名前を出すわけにはいかない。こちらはルーンをアルファベットで読み替え、エフと呼ぶことにする。
エフのような場合、考古学からの観点で職人としての手業を発揮する必要が出てくる。抽象コーデックスの動きを読み、誤った動作をした抽象コーデックスを元にして具象コーデックス側で対応する。すなわち、間違ったものを間違って使って正しく動かしたりする、ということである。

エフは一見非常に優秀な抽象コーデックスであり、また部品となる半具象コーデックスも含まれている。それ自体は部品だが、組み込まれることで具象コーデックスとなり得る代物だ。これを具象コーデックスで辻褄の合うような手業を試みようとすれば、非常に恐ろしいことが起こる。
喩えだが、右手を動かそうとして左手を動かしてしまったり、見たくないものを見て目を閉じようとして目を開いてしまったり。呪いと記す以外にない、通常ではありえないような禍々しい動作を引き起こす。

一部始終、今日エフを使った具象コーデックスを補修していて起こったことを書こう。
入力を行う四角が二つある。
その二つの四角の中で、カーソルが行ったり、戻ってきたり、また行ったり、それを、高速で際限なく繰り返す無間地獄だ。
死の反復横跳びと言ってよい。そして仕組みは固まり、呪いを吐いて動作を停止する。

まるで悪霊に取付かれたような動きだが、何が起こっているのか僕にはピンと来た。
要するにこのエフは、エフが考えている動き以外の動きを受け付けようとするとエフの思うがまま、我儘に、エフはエフだけの動きのみをし続けようとしたのだ。なんという執念だろうか。このように呪われたコーデックスを僕は初めて見たが、確かにエフのコーデックスを読み解くにつれそうした記述が随所にみられるのだ。
エフが思った動きをさせないように抑制し、補修する作業。
これはもはや職人の仕事でもまして考古学の研究でもなく、除霊ではないのだろうか。

除霊してやるよ藤原

失われた「行きつけ」と、この街のイタリアン

工房へと毎日通う職人に取って、昼食の時間は重要だ。同僚の職人たちの中には、安く冷めた弁当を口に運びながら昼休みの間も手を動かす者も少なくないにせよ、僕に取っては優先順位がきわめて高い。

 

少し前まではエンジェルフェイクという洋食店が工房の近くにあった。オムライスが人気の、昼はランチ、夜は酒場として盛況した店だったが、諸々の事情が重なり無くなってしまった。
通い始めて5-6年だろうか。僕はここの店主にも店員にも顔や名前も覚えられていて、所謂「僕の行きつけ」の店だった。それだけにこの事件は非常に僕を苛んだ。
思い出深い店内が、開け放たれたドアの外からは打ちっ放しの壁に塗り替えられ、その改装を担当する作業員たちがせわしく出入りするところを見た時は、胸が痛んだ。
2号店があるものの、内装の懐かしさや1号店の店主は失われてしまったことで、しばらくはその道を通ることができない程だった。

 

この店があった建物が改装され、radicareという店になったのはつい最近のことだ。

この街でイタリアンを専門にすることは難しい。熟年の職人の比率が圧倒的に高く、彼らは決まって安居酒屋や定食屋に向かい繁盛し、イタリアンは瞬く間に消えてゆく。そういう意味ではエンジェルフェイクがこの街で生きてゆけたのは、手腕のなせる技だった。
radicareは手打ちパスタ専門店だ。ランチが千円で、周囲の定食屋に比べ明らかに高価。息が長く続くとは思えず、変わり果てたその店に、僕は足を踏み入れた。

 

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結論から述べれば大当たりと言わざるを得ない。

写真は自家製パンチェッタと玉ねぎのトマトソースで、絶妙な歯ごたえと決して濃すぎない味付けだ。付け合わせのサラダは新鮮で、パンはそれ自体でも食べることができるにせよ、残った具を乗せるにあたってこれも丁度良い。

店内は僕が訪れた頃には閑散としていたものの、やがてぽつりぽつりと客が来て埋まっていった。カウンターのない打ちっ放しの店内が、新たな客が新たな席について賑わいに満ちてゆく様を見て、かねてからの悲しみに安堵が追いついた。

 

この五反田に訪れて、もしも昼食に困ったのなら、この店の名前を覚えていてくれたら、少しだけ幸せになれるだろうと僕は思う。

悪しき賢者、【フェオ】

名古屋には昔偉大な職人が住んでいたと聞いたことがある。僕の所属する会社の水準をはるかに超えるコーデックスを記し、数多のコーデックスに流用させた、偉人である。

が、考古学者かつ職人たる僕の見解は違う。

皆考古学者ではなく職人のため、信じて疑わなかったろうが、その水準を超えたコーデックスの一切が文献と仕組みの解説を行っていない、本人にしか行使し得なかった力であることを僕は知っている。そしてまた、その力が虚偽によって齎された―――一見正しく動くようで、実は動いたり、そして動かなかったりする、未完のコーデックスであることを。

彼の職人の名の頭文字のルーンを元に、憎悪はあれども職人として敬意を表しF【フェオ】と呼ぶ。

 

職人として上記の理由で、職人を目指してから今までの年月、僕は【フェオ】を忌避していた。

が、会社は違う。【フェオ】は優秀な職人であり、名古屋を中心とした各区における戦略に多く携わり、その多くでそのコーデックを使っているため自然と属人化した管理体制にならざるを得なかった。そして【フェオ】は現役の職人であり、今もなおそれを拡大し続けている。

そうした地域の見習いの職人とも意見を交換したことがあるが、皆考古学の知識を携えていないことから、職人にとって最も大切な「何がどう駆動してどうなる」という核心が、【フェオ】のそれからは読み取れないと言う。

 

避けていた【フェオ】のコーデックスに触れる仕事を請けざるを得なくなったのはつい先月のことだった。名古屋の辺境に佇む、とある工場。

【フェオ】はこの工場の担当者を外された。

ついにコーデックスの悪辣さと、そしてまたその機能性に問題を抱えていると指摘を受けたのだ。

 

職人無き後の工場からは会社へのクレームが立て続けに起こった。我々の頭領は今までに「もう少しで」とか、「誠意取り組んでいる」とか、言っただろうか。実情はそうではない。誰もそのコーデックスを読み解き、そして補修することが出来なかったからだ。

工場にとっての正しい仕組みは、その工場によって定められる。僕たちはみな、それを聞きこんで仕組みを拵える。【フェオ】も例外ではなかったが、その記録を残していない。

我々のような会社について、そういった場合に工場側からは、当然職人から職人に技術や知識の伝道が行われて他の職人がその職人を継ぐ、いわば知の継承が行われるのが常とされている。【フェオ】はそれを行うつもりが無かったようで、全くの葦の原から田畑を耕す、そうした不毛な肉体労働が名古屋の地に、そしてしばらくのちに僕の身に降りかかったというわけだ。

 

今、僕はその未完のコーデックスを元に正しい動きすら分からないまま、仕組みを作り上げている。見えない正しさを元に試行錯誤し、求道する様はさながら生くる者の宿命にも思える。職人の求道とは、想像を絶する厳しさの上に成り立っていると、僕は認識を改めた。

そしてまた、【フェオ】もそうであったのだろう、と想起した。

 

ぶっ殺すぞ藤原

考古学者として

埼玉にある工場では色んな不思議な粉を混ぜ、加水して練り、ゴムとか、ゴムじゃないものにするなり、あるいはゴムの手前で出荷している。

僕を雇った会社は、その工場のシステムを手がけている。作業をする人が、この粉を何キロ、そしてこの粉を何グラムと測って小分けにして袋に詰める指示を表示し、誤差範囲ならOKとして袋に詰めさせる仕組みだ。その仕組みが、彼らにそれを可能にさせている。

ところがその仕組みは職人が遠い昔にこの地を離れており、なぜそんな仕組みを思いつき、作り、そしてもたらしたのかは完全に謎に包まれている。それどころか、測りについての文献もなく、その仕組みのコーデックスはあるものの現代の文法からかけ離れた書き方のおかげで正しく読むことさえままならない。

僕はこの会社で雇われている、考古学者兼見習いの職人だ。コーデックスを読み解き叡智を拾い上げ、そしてゴムや、ゴムでないものを作るために埼玉の地に再び新品の仕組みを組み上げることを使命としている。

 

コーデックスを読み解くうちに、仕組みと測りの間の作りがどうやらかつての職人には不得手だったようで、僕は狼狽したが辛うじてそれを改善した。

今日、かつての職人を知っていると称する人間が来てこう言った。

 

「きみ、改善するのはいいが、古いものがなぜ動いていたか説明できないなら改善とは言わないのだ」

 

のみならず、僕が丁寧に補修し拵えたコーデックスにひとつ、またひとつと指摘をする。ありがたい話に見えるだろうが、この指摘は間違っている。僕がまだ見習い以前に職人の従者を務めていたころ、そういう間違いをすることもあったろうか。

彼はこの会社で共に働く機構士だ。ヴェテランであり、また数多くの仕組みの物理的な機械を作り上げてもいる。発言力も強い。考古学者としては一流の自負を持っているが、僕は職人としては見習いを自称している。

そういう場合はウンと頭を下げて聞けと言った僕の師匠の職人はすでにこの地を去っている。だが僕は頭を小刻みに下げた。職人というのは、何も腕ばかりの仕事じゃない。それは、受け継がれた思想や信条から成り立つものだ。僕はそう思っているから頭を下げた。

 

「違いますね」

僕は補修部分への誤った指摘についに耐えきれず、つい間違いを訂正した。ひとつ訂正すると不思議なもので、先程のこれや、それからあれもとあれよあれよと口をついて正しい知識が出てくる。

しかしそれが災いしてか、なぜか僕は来週、何もすることがないであろう埼玉の工場へと足を運ぶことになってしまった。

 

ゴムを作ったり、あるいは作っていなかったりする工場へと、来週の月曜に臨まなければならない。

 

死ね。